大須の由来

大須の由来

寺町・大須の誕生

尾張地域の中心は織田信長が居城としていたこともあり、長い間、清洲城とその城下町でした。 しかし、関ヶ原の戦い以降の政治的な問題や、水害に弱い地形上の弱点があることなどから、徳川家康は名古屋城築城を決定します。 これにともなって、清洲から名古屋へと武家屋敷、神社仏閣、橋、町屋、門などあらゆるものが移され、現在の大須界隈は名古屋城下の南寺町として、神社仏閣の多く集まる場所として指定されました。 慶長17(1612)年には家康の命により犬山城主成瀬正茂が現在の岐阜県羽島市桑原町大須にあった真福寺(大須観音)を現在地に移転。周辺地域は大須観音の門前町として発展し、大須と呼ばれるようになりました。 寺町「大須」の誕生です。



大須のにぎわい

大須観音の移転後、周辺が本格的ににぎわいを見せるようになるのは、七代目藩主徳川宗春の時代です。江戸では八代将軍吉宗が、質素倹約を良しとする政治を行っていました。それに対して、宗春は芝居や芸事を奨励し、消費促進、開放政策を行いました。その結果、名古屋の街は繁栄を取り戻すことになります。
当時、武士が芝居や寄席に出かけることはよくないとされていましたが、その慣習に反して宗春は自らそういった場所へと出向いて行き、文化を奨励しました。
宗春は、盛り場としての大須の基礎を形成した人だったと言えるでしょう。



大須商店街誕生

大正元年、万松寺が領有する付近の山林の大部分(現在の大須3丁目付近)を開放したことにより、大須商店街が誕生し、名古屋市内随一の歓楽街となります。
盛り場としての大須は再びにぎわいを取り戻しはじめ、劇場、演芸場、映画館などが作られました。
明治時代に再び大須に設置された遊郭(旭遊郭)も、多くの人でにぎわいましたが、1919年に中村区大門地区に移転しました。

昭和に入ると、大須付近が商業地域としての側面を見せてきます。
当時は大変なにぎわいを見せたそうですが、戦後の復興事業で若宮大通(100m道路)や伏見通がつくられたことにより、名古屋中心部の盛り場は分断され、人々の流れが変わったことで、大須の街はだんだんと寂しくなっていってしまいました。
こうして街の変化から取り残された大須ですが、この都市計画からのがれたことによって、結果的に大須らしい魅力的な下町の風情を現在に残すこととなりました。
1970年代後半になると、アメ横ビルや家電販売店、パソコンショップなどが集まりはじめ、電気街としての発展を遂げます。秋葉原、日本橋(大阪)とともに日本三大電気街といわれるようになりました。その後は他の電気街と同様に、オタク街としての性格を強めていきました。
現在では各地に存在する「メイド喫茶」の業務形態は大須が発祥という説があり、オタク文化と密接な関わりを持った街です。2003年から開催されている世界コスプレサミットでは、世界中のコスプレイヤーたちが大須に集結し、商店街を練り歩きます。

現在はますます「ごった煮」の雰囲気を強くしています。「大須」という街全体に年齢性別国籍を問わずさまざまな人々を受け入れる雰囲気があります。海外の商品を販売する店舗や外国人が集まる店舗などが多くあり、名古屋にいながらにして、さまざまな国々の文化やファッション、グルメに触れることができる多国籍な街という側面も持っています。また、老若男女問わず、安価な洋服やおしゃれ小物、古着を求める人々が多く訪れるファッションの街でもあり、毎日多くの買い物客で賑わいます。今後は商業地としての側面に加えて、「名古屋らしい」街の個性が残る観光地としての側面を全国的にアピールすることで「商業観光地」として、地元のみなさまだけではなく、観光客のみなさまにも楽しんでいただける街づくりを目指していきます。



愛知県図書館がデジタルライブラリーで「重ね城下絵図」を公開しています。
古地図と現在の地図を重ねて見られます。
「ここは昔なにがあったんだろう?」と考えながら散策するのも楽しいですよ。